![]() |
|
|
![]() |
||
ミャンマー友好の旅現地報告書舘 佳文
第1日目 夜8時、我々はようやくヤンゴン国際空港に到着した。まるで19世紀の旅客船を思わせる(もちろんそんなものがあったならの話だが)薄暗い、何か頼りない空港で力強く我々を迎えてくれたのはガイドのチョーカインさん、ホストのダゥキンキンラさん、そして今回の旅行のスケジュールをすべて組んでくれたサンネイ・トラベルの西垣さんであった。時間が時間なだけに、西脇さんから早々に旅の日程の説明(タイでの足止めによって当初予定していたスケジュールがすっかり変わってしまっていた)を受け、西脇さんと別れた我々はホストであるダゥキンキンラさんのお宅に、待たせていた車で向かうこととなった。道は真っ暗である。弱々しい明かりで何とか道を照らしてくれている街灯以外に明かりは途中すれ違うハイビームにしたままの車くらいなものだ。どちらもたまにひょっこり現れて道を照らしてくれるのだが、車は10分で3、4回くらいしかすれ違わないし、街頭の数も100メートルに1つ程度(何せ道は真っ暗なので距離感覚は定かでないが、おそらくこのくらいだろう)なので、気がついたらいつの間にか、道のど真ん中を走っていたりする。道もひどくデコボコしていてたまに車体が飛び上がる。ちょうどビック・サンダー・マウンテンにでも乗ったような感じだ。途中、町らしき場所を通ったが、そこには喫茶店のような建物がいくつかあり、明かりがついている。しかし、それも夜10時を過ぎると消えてしまうようである。 町並みは暗くてはっきり見えないのだが、どうやら空港から町を通ってミャンマーの高級住宅街へと移動したらしい。ガイドのチョーカインさんはしきりに、「目的地の辺はみんなお金持ちの家ばかりです」と言っていたが、確かに通る家々は確かに今までと違って塀と門があったり家の作りもしっかりしていた。それまですれ違ってきた家は、日本のような台風が来たら、3匹の子豚ではないが、たちまち簡単に吹き飛ばされてしまうだろう。 ダゥキンキンラさんの家に到着した我々は居間に通され(家のつくりは居間、ダイニングキッチン、寝室、客室、さらに2階もあって比較的洋風なつくりであるが、寝室が土間ようになっていたりする)、若いころ日本に少し滞在していたというダゥキンキンラさんとガイドのチョーカインさんの二人と日本語で少しお話しをしてから、すぐ近くのダゥキンキンラさんのご兄弟の家にご挨拶しに行くことになった。 そのお宅の主は70歳近いおじいちゃんで自転車の修理工場を営んでいた。娘夫婦と2世代で住んでいる。家に入ると床はなく靴のまま中へ進む。入るとすぐが居間になっていておじいさんとおばあさんが満面の笑みで迎えてくれた。その周りにはおじいさんの娘とその子供たちのまた、ちょっとはにかみながら同じような満面の笑みで迎えてくれた。そこには外国人に対しての警戒心などかけらも感じられない。我々もちょっと照れくささを感じながら「ミンガラーパー(こんにちは)」と言った。その瞬間、部屋は和やかな笑いに包まれるのがわかった。本当に久しぶりの家族の再会のような、穏やかで心休まる歓迎であった。 1時間は居ただろうか。日本語は通じないが、片言のミャンマー語を我々が一言発するたびにうれしそうに大きくうなずいたり、笑ったり、本当に笑いの絶えない楽しいひと時であった。帰りがけにおばあさんが「明日朝早いんでしょ?これを持って行きなさい。」と言って、ミャンマーのおつまみのパックを持たしてくれた。茶葉の漬物に10何種類ものさまざまなナッツを混ぜて食べるお菓子。そのさまざまなナッツはこれから出会うことになるさまざまなすばらしい出会いであり、茶葉はその出会いに助けられかけがえのない貴重な体験をしていくことになる我々である。自分の本当の孫のように送り出してくれた。
第2日目 翌日目覚めると、自分の真横に子供の握りこぶしくらいの蛙がたたずんでいた。その蛙は私が起きたのを合図に部屋の隅のほうに跳ねていった。やれやれなんというところからこの蛙は登場するんだろう、と思いつつも不思議と驚かない。当然蛙くらいこの部屋にいてもおかしくない、というような雰囲気が、密閉されているはずの部屋での蛙の出現というおかしな現象への懐疑心をも上回っているのである。まるで家猫でも見るように蛙が視界の外へいなくなるのを見送り、起きることにした。何せ朝が早い。この日は朝4時起床して朝市を見に行くため、5時に出発する予定だった。タイとは30分しか時差はないので時差ぼけはないが、なかなか寝られないのでまったく疲れは取れていない。寝ぼけ眼で身支度をし、結局5時半ごろ出発となった。外はまだ暗く、肌寒いがとにかく車に乗って朝市に出発したわれわれは、その後必要になるわれわれのパスポートのコピーを町の何十枚も取り(賄賂をとともに諸役所の人々に渡すのだそうだ)、夜が明けたころ目的地に到着した。 朝市は見慣れない果物、食品にあふれていた。瓜科の果物や大きな葱、中にはミャンマー式の醤油なども売っている。このあたりの朝市はいかにもわれわれが想像するような朝市で、狭い路地の両脇にテーブルをこしらえて食材を並べて、タナカ(ミャンマー式の日焼け止め)を顔に塗った女性たちが店番をしている。辺り一帯が朝市で、屋根つきの場所では民芸品なども売っていた。こちらは観光客をターゲットにしたものも多く販売していて、ちょっと目が合うたびに、「オニイサン、カッコイイ。オニイサン、カッコイイ。」といって売り子が寄ってくる。チョーカインさんは、あまり物珍しそうにしちゃダメです、お店の人しつこいです、と言っていたが確かに日本のカラオケやキャバクラの客引きなんかより遥かにしつこい。ずるずる後ろについてきてなかなか立ち止まらせてくれない。ちなみに、どういうわけか民芸品コーナーには男の子の客引きが多かった。 そのようなあわただしい朝市見学を終えて早々に首都ヤンゴンを後にした。次に向かったのは、バガンである。このバガンは日本でいう京都のようなところで、ミャンマーの仏教の聖地である。パゴダ(仏像が奉られている祠のようなもの)や寺院が数千も林立し、そのほとんどは11世紀から13世紀にかけて建てられたものであるというから、まさに遺跡の宝庫である。 バガンへはヤンゴンから空路で行く。到着したバガンの空港は荒野のど真ん中にあった。ミャンマー有数の観光地なだけに、その周囲10数キロにはしっかり舗装された太い道路が存在するが、それ以降は粗末なコンクリートか、ただ単に土が平らにならされたというような道しかない。通る度に大量の土ぼこりを撒き散らすことになる。 空港を出た我々はまず空港から20分弱ほど離れた、今回宿泊するホテルに向かった。そのホテルは小奇麗な数十棟のコテージがプールを囲むように建てられていて、それぞれのコテージにはすべて温水が出るバスがあり、便器も洋風の水洗便器、衛星テレビも完備されているという、バガンのその一帯における最高級ホテルであった。しかし、その宿泊費は朝食が付いて、日本円にして一人2000円程度である。まさに驚くべき物価の差が日本とミャンマーとの間に存在する。 ホテルで一休みし、暑さがピークを過ぎた午後3時ごろ、我々はパゴダ・寺院めぐりに出かけることにした。夕方までに12ものパゴダ・寺院を回ったのだが、どのパゴダも1つとして同じ姿のものはなく、また一つ一つにそれぞれの歴史がはっきりと刻み込まれていた。幽霊寺院といわれるダマヤンジー寺院、囚われの王が建てたマヌーハ寺院、5層ものテラスを持った夕日の絶景が見られるシュエサンドーパゴダなど、本当に様々である。 我々が最も気に入ったのは、ヤハウンジー寺院というあまり観光客が来ない、ちょっと寂れた寺院である。我々はその寺院で30分ほど時間を潰すために寄ったのだった。夕日の絶景が見えるシュエサンド−パゴダで夕日を見るために、日が沈みかけるまで時間を潰したのである。しかし、寺院のてっぺんまで登り見渡した光景は本当にすばらしいかった。エヤワージー川が遠くで雄大に流れ、数え切れないほどの大小さまざまなパゴダが、まるでミャンマーの人々それぞれの営みを象徴するかのように、力強く凛として立ち並んでいた。
第3日目 一日バガン観光を満喫した我々は、今回の旅の目的であるチン州のミンダという町に向かった。この町で2月20日チン族のナショナルデーにお祭りがあり、それを見学するというのが今回の旅の目的だったのだ。ミャンマーは連邦共和国であり、6州と6管区に分かれている。チン州はその中でミャンマーの西端にある州で、インド、バングラディッシュと国境を接している。ビクトリア山に代表されるような高い山々が連なる地域で、52種類もの支族が生活している。ホテルで朝食を済ませた我々は、日が昇って早々ジープに乗って出発した。ジープはフロントガラス以外に窓はなく、吹きさらしである。天井にはビニールの屋根が付いてはいるものの、朝は寒いので吹き込んでくる風に震えながらひた走ることとなった。 道は舗装などほとんどされていないに近いが、どこからどこまでが道かは一応認識できる。山に入るまではひたすら荒野を駆け抜けた。見渡す限り荒野とヤシの木である。道は舗装されていないので、砂と土ぼこりですぐに埃だらけになってしまった。 山に入るまでにいくつかの町・村を通り抜けた。家々は壁が竹、屋根はヤシの葉というような造りである。道には犬がぼたぼた落ちていて(本当にぼたぼた落ちているのだ)ジープが通っても見向きもしない。道の真ん中に寝ていたときには、かわいそうだが無理やり起きてもらったが、それ以外はジープの上からだと生きているのだか死んでいるのだかまったく分からない。昼になると気温もかなり上昇し30度を超える。朝はあれほど寒かったジープの中も、半そでTシャツでないと乗っていられないほどになった。途中、大河を船でジープごと渡り、道なき道を進み、浅い川をジープでわたり山へと入っていった。山に入って数時間、6時を回ったあたりでようやく目的地のミンダに到着した。 ミンダはチン州第二の都市である。次の日にチン州の他の村を見学させてもらうこととなったのだが、他の村に比べると圧倒的に文明が発達していた。というよりも西洋化していた。村には一軒レストランがあり、そこには衛星テレビがある。この町一番のお金持ちの家には車がある(今回の旅でお世話になったジープもこの家のご主人のジープである)。大きな小学校もある。宿もある。 チン族は顔が日本人とよく似ている。肌の色は若干黒いものの、姿かたちはそっくりである。まずジープを使わせてもらっている家のご主人にご挨拶しにいったのだが、その家のご婦人などは色も白く、メガネもかけていて(メガネをかけているチンの人は後にも先にもこの人一人であった)本当に日本人そっくりであった。 この町には街灯というものがまったくないので、夜になると本当に真っ暗である。夕飯をレストランで済ませ、真っ暗な道で途中何度もつまずきながら宿に帰った我々は、地獄の水浴び(夜は本当に寒い)を済ませ、ゆっくり休むことにした。
第4日目 いよいよお祭りの日である。朝、町の広場で祭りの開会式があるので参加することとなった。開会式には百人を超すチン族に人々が集まっていた。どこにこんなにたくさんの人がいたのか不思議に思ったのだが、この日のために何日もかけて他の村から人が集まってくるのだそうだ。開会式では国の高官や村の代表が挨拶を述べ(長い長いお話で、こんなところも日本そっくりである)、1時間あまりで終わった。その後、我々は広場にある屋台での展示物を見たり、弓矢を体験させてもらったり、顔面刺青のおばあさん(チン族は顔面刺青で有名な民族である)と写真を撮ったりしながら広場を回った。ある屋台では民族衣装や民芸品が展示されていたり、ある屋台ではチン州の植物、農作物の展示があったり、また日本のお祭りの屋台のようにルーレットを使って賭けをする屋台もあった。どの屋台でも我々はたくさんのミャンマー人たちに囲まれて「これは知っているか?」とか「手に持ってもいいよ」とか「これは何でできているの?」「これきれい!」などと身振り手振りで会話することができた。本当に暖かい人たちばかりである。屋台を一通り回った後、我々はチン族の普通の村も見学しに行った。ミンダから車で20分ほど離れた村に行ったのだが、そこでは最初にロンジー一丁で子供を抱えた村長が出迎えてくれた。我々は村長の協力のもと、一人の若者に村を案内してもらえることになった。村は山の急な斜面にあり、我々は獣道のような道を進んで村を回った。チン族には巨石信仰というものがあり、巨石には精霊が宿っていると信じられている。今ではチンはキリスト教が主な信仰になっているのだが、巨石を集めた場所ももちろんまだ存在している。墓場を思わせるその巨石の山は、確かに精霊が宿っているような荘厳な雰囲気をまとっているのだが、人々はその石の上に座ったりしている。精霊が宿っていようが石は石のようである。あるいは座ることによって精霊を感じているのかもしれない。そんな彼らの様子を見ていると、信仰も生活の一部として脈々と受け継がれているのだろう、と勝手に推測してしまう。巨石はあるときには人々の椅子となり、あるときには動物の寝床になり、チン族の人々を見守り続けている。 村で見る家々は高床式家屋で、隙間だらけの竹でできた壁にヤシの木を乗せただけの造りであり、ドアもない。家というよりもテラスである。人も犬も猫もそのテラスのような家で共同生活を送っている。 村を見て回っていると、途中から小さな女の子が遠慮がちに木の陰からこちらを見ていることに気づいた。旅の仲間の相本さんがアメを差し出すと、これまた遠慮がちに受け取りこちらが食べてみると同じように食べた。するとたちまち満面の笑みである。私はこの国の子供が大好きだ。何も隠さず、不安なときには不安な顔をし、うれしいときは満面の笑みで自分の気持ちを表現する。初対面の外国人である我々に対しても、差別なく満面の笑みを分け与えてくれる。我々の国はいつ、この素直さを忘れてしまったのだろうか。いつ、子供からこのまっすぐな心を奪い去ってしまったのだろう。 最後にわれわれは、見学させていただいた御礼として1000チャット(日本円にして約170円)村に寄付しることにした。すると村長はわざわざジープまでお礼を言いに来てくださった。お金は道路の舗装に使ってくださるそうだ。我々は村長と案内をしてくれた若者に別れを告げ、村を後にした。 ミンダに帰り、食事をし、祭りに参加するときがきた。宿を出たときにはもうあたりは真っ暗である。星明りを頼りに何とか広場にたどり着くと祭りはもう始まっていた。広場には特設ステージが設けられ、まぶしいライトに照らされたステージ上ではチン州各地から参加しに来た民族がそれぞれの踊りを披露していた。民族衣装に身を包んだ子供たちが少し緊張した面持ちで民族を代表して民族舞踊を踊っている。 我々が外国人として特別席に座っていると午前中に広場で少し話した英語が堪能なミャンマー人がやってきた。しばらく彼は舞台の上の踊りについていろいろ解説をしてくた。30分ほどしただろうか、彼は私に「ちょっと酒でも飲みにいかないか?」と言って、屋台に誘い出してくれた。 一杯目はまずビール。ここら辺も日本と同じである。その後、彼の友達も片言の英語で会話に参加し、ミャンマーの黄色い日本酒のようなお酒(これは祭りのときによく飲まれるものだそうだ)で乾杯、ミャンマーラム酒、ミャンマーウィスキーと次々に飲み干し、会話も日本の教育からミャンマーのトイレについてまで、飲み物も会話もことごとく平らげていった。まるで何年も離れ離れになった兄弟の長年ぶりの再会のように、舞台をよそに大盛り上がりであった。時間はいつの間にか真夜中を過ぎていた。
第5日目いよいよミンダを発つ日がやってきた。前日の酒乱パーティーのせいで頭がひどく重たい。この日は行きとは別ルートでバガンに帰り、そのまま首都ヤンゴンのダゥキンキンラさんの家に帰ることになっていた。行きは大河エヤワージー川をフェリーで渡るコースを選んだが、帰りは川を渡らずに陸路で橋を渡るコースに変更した。このコースは川を渡らずにすむのだが、その分道が悪い。行きよりもでこぼこ道なのである。これが災いした。何せ、前日酒を浴びるように飲んだのである。頭は夜中寝ている間に誰かがこっそり石ころつめたように重たくゴロゴロする。おなかはひどく痛む。おまけに、昨晩意気投合した英語を話すミャンマー人をバガンまで乗せたのだが、その彼がジープに積んでいたミャンマー日本酒風お酒が悪路のせいでいつの間にかもれていて、もうジープの中は酒臭くてしょうがない。チョーカインさんと英語ミャンマー人は途中に二日酔いの生姜でできた薬を飲んで何とか耐えていた。 そうこうして何とかバガンにたどり着いた我々は、途中シャワーを浴び(本当に埃りまみれになるのだ)一休みしてからバガン空港に向かった。そして3日間お世話になった運転手さんとの別れを惜しみつつ、ホームステイ先へと帰ったのだった。
第6日目いよいよ帰国の日。ホストのダゥキンキンラさんは前日から不在で最後のお別れができなかったが、家族と親戚とに最後の挨拶をして出発した。この日は午前中にシュエダゴォンパゴダというヤンゴンにあるミャンマーで一番豪華かつ有名なパゴダを見て、ガイドのチョーカインさんの実家に寄り、さらに時間があったらチョーカインさんのガールフレンドのうちの一人(?)の家にお邪魔させていただくことになってた。シュエダゴォンパゴダとは聖なるパゴダという意味である。ミャンマー人の間では、一生に一度はお参りに行きたい場所なのだそうだ。灼熱の太陽に一面大理石の床、そして黄金の塔。日本人が想像する仏教のイメージとはあまりにかけ離れていて、よく考えると本当にありがたいものなのか非常に疑問ではあるが、そんなつまらない意見はシュエダゴォンパゴダの圧倒的な豪華さ、壮大さの前では何の力も持たない。 しかし、すべてが荘厳で皆が粛々としているかというとそうでもない。シュエダゴォンパゴダはバガンのパゴダ・寺院と違って、外国人の観光者よりもミャンマー人の巡礼者のほうが圧倒的に多い。お昼にでもなると巡礼者たちはお弁当を広げて屋根のあるところで昼食を始めるのである。警備をしている人も観光者向けに商売している人も、みんな昼寝をしている。これはちょっと見ものである。確かに真昼間にでもなると、一面大理石の床の上では裸足で歩くのは大変だし(パゴダでは必ず履物を脱がなければならない)、暑くてまともに動く気にはならない。みんな日陰に入ってゆっくりしているのである。なんとなく公園的な要素を持っているようである。 シュエダゴォンパゴダを見た後は予定通りチョーカインさんの実家にお邪魔した。お母さんと妹さんが出迎えてくれたのだが、二人とも本当に綺麗な方で、しかも二人とも日本語が上手で驚いた。日本語を話すとなんとなく素振りも日本人に似ているように見えてくるから不思議である。あるいはミャンマー人は本当に日本人に似ているのかもしれない。 リビングルームにはチョーカインさんの大学時代の写真や妹さんの写真などたくさんの写真が飾られていて、まるでアメリカ人の家庭に間違って入ってしまったような錯覚に囚われる部屋である。チョーカインさんの部屋には、日本語の本や雑誌(折り紙や料理の本まである!)、それにガイドという職業柄、ミャンマー各地の資料(しかも日本語に自分で翻訳してあるのだ)がたくさん本棚に並べられていた。さらに、ミャンマー各地の写真。中国との国境沿いの写真やチンの写真、マンダレーという地域の写真など本当にたくさんである。チョーカインさんの解説付きで写真をほとんど全部見終わった時には、すっかり出発の時間になってしまった。 その後、チョーカインさんのガールフレンドの家に1時間ほどお邪魔した。ガールフレンド本人は仕事で出かけていたが(フライトアテンダンスをしているのだ)、ご家族が我々をもてなしてくれた。威厳があるがちょっと恥ずかしがり屋のお父さんと気さくでやさしいお母さん、陸軍で働いているお父さん似のシャイなお兄さんにお母さん似でやさしい妹さん、本当に親切で優しい人たちだった。おかしやフルーツなどを食べて食べてと言って出してくれ、帰りにはパパイヤのゼリーを包んで「後で食べてね」といって渡してくれた。ずーと喋ってくれなかったお父さんは、最後に写真を撮りたいという申し出ると、うれしそうに写ってくれた。車で出発するときには我々が見えなくなるまで、ずっと手を振って見送ってくれた。まるで息子、娘を送り出すように。 そしてミャンマーともお別れのときがきた。ずっと一緒に我々の水先案内人となってこの冒険を支えてくれたチョーカインさんともお別れである。しかし、そのような悲しみの中再び戻ってきたヤンゴン国際空港は決して以前のように頼りなげではなかった。最初に感じたあのかび臭いような感じはもうそこにはなく、我々を暖かく送り出してくれようとしていた。我々は様々ミャンマーの人々の暖かさを背中に感じつつ、出発ロビーへと向かったのであった。
旅を終えて今でも旅の空気やにおいをありありと思い出すことができる。場面場面を取り出し、取り出した細部をデジタルカメラのようにさらに切り取り拡大することもできる。これほど私の記憶に深く切り刻まれる旅はこれまでなかった。日記形式にこの旅行記を書いたのは、この旅で何を感じ、何を思ったかを正直に見つめ直したかったからである。冒頭でも書いたように、この旅は私にとって冒険であった。豊かさを求める冒険であった。しかし、旅をする途中でそのような動機はどこかに吹き飛んでしまった。もう少し正確に言うならば、この国の人が仏教が生活の一部になっているみたいに、旅の中でこの国の豊かさはこの旅の一部となっていた。 旅を終え、日本に帰ってきたときはもう夜の9時だった。成田から帰る電車の中、私はその電車の中に何かの薄暗いものを感じた。最初にヤンゴン国際空港で感じた薄暗さとは違った、何かよどんだ空気のようなものを感じた。なぜだろう、と思って注意深く辺りを見回してみると、私は人々の表情にある薄暗さを感じてたことに気づいた。よくよく見てみると人々があまりに暗い顔をしていて、我々が日本を離れている間に日本で何か大きな事件などがあったのではないかと思ったほどであった。 ミャンマーで我々を迎えてくれた家族は皆、我々を自分の家族同然に迎え入れ、送り出してくれた。チン州に行く途中に寄った喫茶店(近くの人々やドライバーなどが休憩や昼食に使う休憩所のようなお店)でさえ、店の人でさえまるで古い友人のように話しかけてくれる。改装中のお店の前で一緒に写真を取ったり、面白い果物があるといって皿一杯に果物を持ってきてくれたり、本当に暖かいのだ。 私が求めていた「豊かさ」とは何だったのだろうか。ミャンマーという国は確かに、衛生環境は悪いし、停電もしょっちゅうである。長らく続く軍事政権のせいで経済は疲弊しきっている。あたりは砂埃だらけで水もお世辞にもきれいとは言えない。それでも、人々は底抜けに明るい。誰一人、日本の電車の人々のように暗い顔をした人はいない。 答えなどないのかもしれない。しかし、私の心の一部はすでにこの国に住み着いてしまったらしい。もう一度この国を訪れたい、と私は思う。
舘 佳吾さんと佳文さんのホームページ「梟の旅路」
・現地報告書(舘 佳文・相本 真菜) |
||
| ホーム | 失われた文明の知恵 | 翻訳の部屋 | NPq & Global Viewpoint | | パーソナル・プロフィール | グローバル・ユース・ユナイテッド(GYU)| | kitombo.com |
写真の著作権は大地舜が所有しています。無断に転載しないでください。
Copyright (c) 2000-2004 Shun Daichi |
||